消しゴムかけ忘れ

ノートの隅の忘れ物

歪な出会いとか、そういうやつ

こんにちは。

ショータローです。

「音楽は音源だけでいい」と、そんな考えを信じてやまなかったわたしが、どうやって生きる音楽と出逢い、それを求めるようになったのか  という、けして劇的でなければ特に他人の興味を引くようなものでもないあれそれを、これから少しだけ長くお話します。お手隙のときにでもどうぞお付き合いください。

 

わたしは元々ライブという概念が苦手だった。

それはジャンルを問わず、テレビの生放送からライブ音源、動画サイトの生配信まで全部。今となっては本当に各所から引かれそうだが、CDにライブ音源を入れるなんてどうかしていると思っていた。

文字通り、生の感覚がどうにも肌に合わない。

音源の中にある好きなフレーズ、音運び、揺れ、どれもライブでその通りに聴けるとは限らない。歌い方だって同じではないし、アドリブフェイクや煽りなどはそれの最たるもので、これを好んで聴く人間がいることが純粋に不思議だった。

たぶん、予定外のことが起きること、それを見ることに慣れていない。そういうことが起きれば、大なり小なり飾っているガワが剥がれるから。その気まずさとか、恥ずかしさとかいたたまれなさに同調してしまうから。

だから音楽は、失敗もズレも揺れもきれいに裁断した、つくられた予定調和だけでいいと、そう思っていた。

 

昔の話。一度だけ友人に誘われてバンドのライブに行ったことがあった。武道館で、2階かそこらの奥の方の立ち見席から豆粒サイズのボーカルを見て、ろくに曲も知らないまま手を振って筋肉痛になって帰った。

正直なところそのライブ鑑賞を経ても「予定調和だけがいい」という考えは変わらず、「音楽にのめり込んで、そうしてライブに行くことは一生無いだろうな、連れて来てはもらったけど縁の無い世界だ」と考えていた。

 

つづく。

 

20200508