消しゴムかけ忘れ

ノートの隅の忘れ物

今更? 今から?

 去年はずっと、忙しさを理由にして自分を顧みるのを避けていた。その方が、自分にも周りにも良いのだろうと思い込んで誤魔化していた。

 ところが、そういうわけにもいかなくなった。

 ちょうど一年前の2月。ぎりぎり開催された大きなライブに行ってから一ヶ月も経たないうちに、瞬きひとつの間に何もかもが変わった。家から出にくくなって、カメラロールに残る人の顔はどんどん見えなくなっていった。

 幸か不幸か私はそれにさっさと慣れてしまって、ぶつくさ言いながらもそれなりにオンライン回線と良好な関係を築いていた。たぶん。

 問題はそのあとで、寝ても覚めてもずっと家に居るものだからすることがパターン化した。それも、外に出られていた時よりもずっと単調で動きのないパターン。合わせる顔も毎日同じで、端的に言えばすぐに飽きが来た。何かあった時の逃げ場もなかった。

 そんな時でも、好きなアーティストは私より遥かに大きな苦境に立たされながらも決して逃げずに、前を向いて笑い続けてくれていた。

 「不要不急」という言葉は恐らく、彼らにとっては最大級の暴力になり得る言葉だ。彼らに夢見ているただの私たちにすら大なり小なりの傷を負わせたそれが、その「不要不急」を仕事にして生きている人間たちにどう作用するか、というのは少しの想像で測れてしまった。

 だから、諦められなかった。彼らが見ている未来を、見せようとしてくれる姿を見られないのは、いやだと思った。

 

そう決めたからなのか、単にそうせざるを得ない環境に入っていったからなのかは分からないけれど、今年は否が応でも自分のことを顧みることが多かった。

 自分で思っているよりも、自分はただの人間だったこと。

 今更、選択を後悔していること。 

 欲しかった幸せは、もう今生ではきっと手に入らないだろうことが分かった。だけれど、それ以外の事象にもなんだかんだと幸せは潜んでいて、それをきちんと飲み下せるようにもなった。

 何でもかんでも、あれもこれもと望んでしまうけれど、御生憎様と言ったところか「これでは他人に勝てない」と思ったとしても、それしか手札は無いのだ。だから、カードを捨てても、勝負から降りても、拾って這いつくばって使っていくしか選択肢がないらしい。残念だけど。

 

苦境の中、笑顔でいられる人は強い。重い感情を昇華して、なんでもないみたいに笑っていてくれる人を、この一年でたくさん見てきた。それってものすごく、格好良いことなんじゃないかと思う。

これも、この一年で気づいたことのひとつ。

 

昔から私はそういう重い感情に塗れて過ごしてきたし、それを重たいまま吐き出すのが良いことで、自分の創作もそういうものだと信じてきた。

でもこれからは、ほんの少しだけでも、私の好きな人たちみたいに笑う練習ができたらいいなんて思ったりする。

 

 

お題「#この1年の変化」