消しゴムかけ忘れ

ノートの隅の忘れ物

歪な出会いとか、そういうやつ

こんにちは。

ショータローです。

「音楽は音源だけでいい」と、そんな考えを信じてやまなかったわたしが、どうやって生きる音楽と出逢い、それを求めるようになったのか  という、けして劇的でなければ特に他人の興味を引くようなものでもないあれそれを、これから少しだけ長くお話します。お手隙のときにでもどうぞお付き合いください。

 

わたしは元々ライブという概念が苦手だった。

それはジャンルを問わず、テレビの生放送からライブ音源、動画サイトの生配信まで全部。今となっては本当に各所から引かれそうだが、CDにライブ音源を入れるなんてどうかしていると思っていた。

文字通り、生の感覚がどうにも肌に合わない。

音源の中にある好きなフレーズ、音運び、揺れ、どれもライブでその通りに聴けるとは限らない。歌い方だって同じではないし、アドリブフェイクや煽りなどはそれの最たるもので、これを好んで聴く人間がいることが純粋に不思議だった。

たぶん、予定外のことが起きること、それを見ることに慣れていない。そういうことが起きれば、大なり小なり飾っているガワが剥がれるから。その気まずさとか、恥ずかしさとかいたたまれなさに同調してしまうから。

だから音楽は、失敗もズレも揺れもきれいに裁断した、つくられた予定調和だけでいいと、そう思っていた。

 

昔の話。一度だけ友人に誘われてバンドのライブに行ったことがあった。武道館で、2階かそこらの奥の方の立ち見席から豆粒サイズのボーカルを見て、ろくに曲も知らないまま手を振って筋肉痛になって帰った。

正直なところそのライブ鑑賞を経ても「予定調和だけがいい」という考えは変わらず、「音楽にのめり込んで、そうしてライブに行くことは一生無いだろうな、連れて来てはもらったけど縁の無い世界だ」と考えていた。

 

つづく。

 

20200508

夕焼けに願う

こんにちは。

ショータローです。

アカウントの画像は設定したけれど、雑記本体のアイコン画像もなるべく早く決めてあげないといけないなあと考えています。

 

家で過ごす時間が増えて早数週間。生来の出不精が良い方向に転ぶかと思いきや、意外とそうでもない。「しない」と「できない」では全くもって話が違うことに気付いたのは少し前のことだ。

 

絵を描くにも、携帯の画面を眺めるにも飽きが来たわたしは、最近カメラをよく使うようになった。小ぶりなミラーレス一眼カメラ。何もいきなり張り切って使おうと意気込んだわけではなく、これまた少しのきっかけがある。

 

わたしは生まれてこのかた起床を大の苦手とする人間で、何かしらの予定が無くなったこの頃は特に朝がつらく、身体を太陽光で目覚めさせようと、起きてすぐ寝ぼけながらカーテンを開けている。自室の窓は西向きなのでどう頑張っても朝日は入ってこない、明るさでなんとかしようという気休めだ。それでも夕方には必要以上に眩しくなってしまうので、昼間かそこらにカーテンは閉めてしまう。

 ある日、別の考え事に気を取られてカーテンを適当に閉めた日があった。幸か不幸かその日はやたらと慌ただしく、カーテンの隙間から射す強い西日を気にしていられないほどにずっと机に張り付いていた。作業がひと段落したのは18時を回ろうとしていたころ。何気なく窓に目を遣ったときだった。

今まで見たこともないような赤橙と紫のグラデーションが、部屋の窓の外を埋めていた。

これまでも何度か陽が沈むのを自室で見たことはあったが、その時は何かが違った。「空が焼ける」という表現がぴったりはまったような感覚がして、気付けばスマートフォンのカメラで何枚か写真を撮っていた。それでもアルバムに記録されたデータでは色味が全く違ったので、ひとり地団駄を踏んでいた。

あんなにも鮮明に目に焼き付いたあの色が、レンズ一枚、液晶一枚通しただけでいなくなることに気付いたわたしは、それなりに悔しがった。どうにかしてあの色を残したいと考えたとき、家に眠るカメラの存在を思い出した。

カメラの電池を充電しながら、明日も晴れますようにと願った。こんなお願いをしたのは何年ぶりだろうかとひとり笑い、眠りについた。

幸いにもそう願ってから今日まで快晴続きで、順調に写真は増えている。どうもこの状況下、経済活動の滞りが起因して大気が澄んでいるそうで、そのおかげで夕陽がきれいに見えるらしい。たしかに写真に収めている陽はどれもくっきりと真ん丸で、穴でも開けたような孤独さを持っている。だからこそ、最初に見たあの燃えるような陽には未だに会えていない。

お隣さんの屋根の形。

遠くのマンションの灯り。

ひとりの鳥の鳴き声。

鉄塔と電線の間隔。

毎日同じ場所に伸びる飛行機雲。

風に乗って聴こえる駅構内の発着音。

まだ少し冷たい風。

ベランダに出ればいつもと変わらぬ欠片などそこかしこに落ちていて、そう昔の話ではないはずの日常がひどく懐かしく思えた。

いつの間にか空が焼ける時間を把握し始めている自分がいた。夕陽を待つ時間がこれほどまでに恋しいだなんて、こんな時でもなければ気付けなかったかもしれない。

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明日も晴れますように。

そう願って、今夜もカメラの電池を充電する。

 

20200503

 

飽き性のこれから

こんにちは。

ショータローです。

何の話からしていけばいいか分からなかったので、この文たちを記すと決めたときの、少しの後押しのお話をします。初回で「始めたことに大した理由は無い」などとほざきながら、なかなか大層な理由が存在していたのでここにお詫び申し上げます。

 

元来わたしは飽き性という言葉が服を着て歩いているほど飽きっぽい人間で、アニメもドラマも30分まともに観続けられない。ソシャゲの周回も2、3周で疲れてやめるし、「1日1回何かする」という習慣付けも、これまでの人生で続いた試しがない。

日記をつけようとしたことは何度もある。

実際つけていた時期もある。始めの1週間びっしり書いて、その後ぱたりとつけなくなる。そして1ヶ月後に存在を思い出して、また1週間だけがんばる。以下繰り返し。アマゾン川のスコールの如し。

けれど文章を書く行為が嫌なわけでは無かった。むしろ好きなほうだ。

好き とは少し違う、でも 得意 というような距離のある表現もしっくりこない みたいな、意味の分からない愛がそこにある。「わたしにはこれしか無い」という強迫観念めいたものも底にある。のかもしれない。

そして声を大にして言えるほどの技量は持ち合わせていないけれど、絵も好きだ。

でもこっちのほうこそ、好きの一言では収まらない厄介な何某を抱えている。こんなに波のある愛もそうそう無いと思えるほどには、絵のことは大嫌いで大好きだ。これまでの生、絵で喜び 絵で悲しみ 絵で憎み妬み云々を繰り返し続けている。

なんだかんだ距離が近過ぎて、短い期間でコンスタントに続けていくことが出来ない。そして何より筆が遅い。(うだうだ書かなくてもその一言だけで充分だったのではないだろうか)

 

 

そんなこんなでバンドにお熱になってからも、その理屈は覆らずにわたしの中にいた。

「1週間に1枚は絵を出せたらいいな〜〜」などと考えても実情は無惨なもので、3月頭に描き始めた絵は未完成のままフォルダの肥やしになっている。もう2ヶ月経つこの事実に比例して、ツイートは日々増加の一途を辿る。無意味な叫びから格好つけたような解釈まで、時間の無駄をことごとく厭わない姿勢に我ながら呆れた。

 

 

そんな阿呆は、ある時このハッシュタグを目にした。

 

 

 

誰かの心を開けて見せてもらうような、脳ミソの道筋をご本人に事細かに表現してもらうような心地がしたこの企画は、食わず嫌いばかりするわたしの心にすとんと落ちた。

自分に刺さった理由は全くもって分からない。どう言葉にすべきか考えつかない。

 

けれど、わたしはこれを観ているだけの人間では終われないと思った。

 

並びたいとか追い付きたいとかそういう野心のようなものではなくて、「わたし」はどう考えるのか、「わたし」はどう思うのか、「わたし」はどう表すのか。それを表に出していくことが、ひょっとしたらわたしに出来るのかもしれないと思えた。

 

だからこうして雑記を始めようと考えた。

実際この行動がどう働くかは全然わからない。良くなればうれしいし、悪くなればそれまで。人生楽ありゃ苦もあるさと水戸黄門も歌っているのだからなんとかなる。そう思いたい。

 

一発目からいきなり2千文字弱の言い訳を重ねているけど、結局は格好良い人の真似っこをしてみたいだけのたいへん俗っぽい理由でしかない。

いきなりそれを話すというのもなんというか、自分の感覚で言うと「メチャクチャダサい」。でも、もうその格好付けすら開き直ってしまおうかと最近よく思うのでそうした。秘匿は美しいけど、ここでは正直に書いてみようかなと思っている。それだけでまずまずの成長なんじゃないかなと言うくらいには、わたしは自分に甘いのだけれども。

 

 

最後になりましたが、あおさん、ユユ・マルさん、DAさん、こしのさんに最大限の感謝と敬意をお伝えしたいと思います。ありがとうございます。

 

20200502

 

 

ごあいさつ

はじめまして。こんにちは。

ショータローと申します。

ふだんはTwitterでこそこそ絵を描いたり ぼそぼそ呟いたりなどしています。

 

始めることに対して特に理由はなく、これまでTwitterや自分のメモ帳に吐くだけで終わらせていた言葉たちを、どうせなら昇華させて供養しようという魂胆です。 

「芸事は人に見せると上達が早い」という言葉を一旦信じてみようと思います。

 

ノートの隅に消すつもりで書いた吐露がうっかり忘れられて残るようなさまざまを記します、どうぞ覚えていただければ幸いです。

 

20200501